広島の夏、長崎の夏

毎年、6日と9日は原爆の事、戦争のことを書いている。
もう戦争を知らない子供たちではなく、大人も政治家もほとんどの人が、戦争も原爆も知らない。
私が今住んでいる奈良では、お年寄りの方でも戦争についての記憶はあまりないようだ。
敵ながらあっぱれと思うことに、奈良、京都への文化遺産の保護の為に爆撃はしなかったという事実を知らない人も多いと思う。

私は、小学一年生だった。
広島の原爆については、その当時何も知らなかった。ラジオと言ってもピーピーガーガーなるような代物だし、日本にとって不利なニュースは庶民には知らされなかった。

9日
その日は、夏休みの登校日だった。
私は、なぜか、行きたくなくてぐずって、母を困らせた。集団登校だったので6年生のお姉さんに手を引いて貰って防空頭巾を持つのも忘れてしまった。
その時は、下校まじかで教室で先生のお話をきいていた。
とつぜん、≪ピカッー≫と目が眩むような閃光が走った。
「皆、机の下に!」という先生の声も終わらぬうちにビリビリと校舎が揺れ≪どっかーん≫という音と共に校舎が傾いだ。
窓のガラスは小さい破片となって柱や床に突き刺さり窓も扉も吹っ飛び、一瞬での出来事に何が起きたのか分らなかった。
どれ位経ったのかも分からないが、そろりそろりと机の下から顔を出した私たちの目に映ったのは、血だらけの先生だった。 ご自分の身を守ることも忘れて、爆風にさらされた先生の顔は、一年生にとって怖さを倍増させた。
防空壕に行きましょう」という先生の必死の声も耳に入らぬ一年生はぐちゃぐちゃに建具の飛び散る廊下を潜り抜けて走り出していた。
「母の元へ、早く母の元へ」という思いだけを抱きしめて。
家にたどり着いて、母の胸を叩きながら初めて大声で泣いた。
学校から家まで走った時のことを書いた一編の詩を毎年ブログに書いている。
なんびとかの人の目に触れて、日本に2発の原発が落ちた事実を知って貰えればいいと思う。

  真夏の雪

 ♪お日さまは 薄い紗を被ったように白く見えた

 わたしのみじかい影が長崎高女の壁に映っていた

 町は静まり返って いつもの蝉の声も聞こえなかった

 まるで、町の中から人も蝉も命あるものがみんな消えてしまったようだ

 先ほどの地獄のような光景は夢だったのか?

 それは、稲光と雷がいちどに千も万も落ちたような物凄い光と音!

 地響きと共に学校は一瞬で壊れた

 血だらけの先生の顔は、恐かった

 気が付いた時は何処をどうかいくぐったか我が家への道を走っていた

 「早く!早く!母のもとへ」
 
 しんとした道にきらきら光る真夏の雪が降っていた♪


後で思えばそれは「死の灰」だったのだ。
爆心地の長崎大学医学部」に通っていた従兄は、学校で亡くなった。
お骨を拾いに行った伯父は、ずらりと整列したお骨から小さな骨を少しずつ拾い集めてきた。
三菱造船に勤めていた父は、事務所に居たにもかかわらず急性白血病になって頭が禿げた。
電車に乗ろうと待っていた従兄も大きいけがをしたが、一緒に待っていた人たちは誰も立ち上がらなかったそうだ。

家は、瓦も飛び建具も壊れて住める状態で無かったので横穴の防空壕終戦まで暮らした。
その後の長崎は夜になると異臭が漂い蒸し暑い夜は不気味だった。
「あれは、死んなさった人ば、学校の校庭で焼きよんなさっとばい」と近所のおじさんが教えてくれた。
終戦を迎え、母と私と弟は鹿児島に住む祖父母の所に疎開した。

私の中の戦争の記憶を毎年書き続けよう決めているのですが
今年は、娘婿がオランダ転勤で行っているので明日から2週間行ってくるのでちょっと早いけれど、書きました。

次は、楽しい記事をアップしますのでよろしくね。

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