長崎 66回「原爆の日」

yosinonosato2011-08-09

今日は、66年前長崎に原爆が落とされた日である。
あの日も天気は良く暑かった。
夏休みの登校日に当たっていて、1年生の私は学校にいた。その日の朝、虫が知らせたというか学校に行きたくないと駄々をこねて母を困らせた。当時、各町内で集団登校であったので6年生のお姉さんに手を引かれてしぶしぶ学校に行った。もう少しで下校時間になるという時にそれは起きた。警戒警報は解除中で私たちは先生のお話を聞いていた。それは、突然物凄い稲妻が一度に100発も落ちたような、目が眩むような閃光が走った。「みんな、椅子にもぐって」という先生の声と、バリッバリッと轟音を立てて校舎が揺れ、建具やガラスが吹っ飛ぶのと同時だった。暫らく目を瞑って頭を抱えて机の下に潜っていた。どれくらいの時間そうしていたか、分らない。そろそろと頭を上げると信じられない光景が広がっていた。教室は、窓も扉も吹っ飛び、倒れ掛かった柱や床にびっしりとガラスの破片が突き刺さり、先生は顔中血だらけだった。「防空壕に、入りましょう」という先生の声を後に私は倒れ掛かった扉や窓の隙間をかいくぐり家へと走っていた。家では、母が1歳の弟をおんぶして祖母と伯母を連れて町会の防空壕に行くところで、「みんなを防空壕に送ってから学校に迎えに行こうと思うとったとよ」と抱きしめてくれ、私はワァワァ泣くばかりだった。後から帰ってきた上級生達は一応校庭に掘ってあった防空壕に入ったが、その後戦闘機の音もしないので、怪我の無い人は帰ってきたらしい。それからの混乱は未だ小さかった私は記憶もおぼろげだが、あれから、もう66年も経ち、広島、長崎と原爆の被害にあい恐ろしさも知っている日本がどうして原発の安全を守れなかったのか、悔しい思いだ。原発ができた時の安全宣言をあんなに恐ろしい目にあった国が安全だというのならと信じてしまった。今回は津波という予想外の事だったというのは通らない話だ。広島、長崎の悲惨な被害から、何も学ばなかったのか?私は、被爆者として今回、こんなにも長く終焉できずにいる東電の原子炉爆発は、本当に悔しい。自然災害で済む話ではない。終焉した暁にはきちんと東電の責任を問わなければいけないと思う。