戦争の記憶⑥ 記憶のかけら(戦後)

医大の跡

原爆が長崎に落ちて6日目に日本は降伏して、戦争は終わった。
その頃の大人たちは一時悔し涙にくれた人も居るだろうが本音は「ああ、これで夜も心配せずに伸び伸びと眠れる。灯りも遠慮せずに点けられる」といったものだったのではないかと思う。
前にも書いたとおり原爆の後、長崎大学の医学部に行っていた従兄が行方不明になった。伯父が探しに行ったけれども瓦礫の中にはきれいに白骨になった骨ばかりが並んでいて手がかりになるようなものは何もなかった。それくらいきれいに焼けてしまっていたらしい。小さな骨をあちこちから拾い集めて持って帰ったらしい。
もう一人の従兄は電車を待っていて爆風に飛ばされ腕になにか突き刺さってケロイドになっていて「ほらほら、此処に石の入っとっと、触ってみんね」と怖がる私をいつも追い回してその従兄が怖かった。
父は三菱長崎造船所で被爆し、急性白血病になり頭の毛が抜けた。それでも76歳まで生きたのだから運が良かったのだろう。
終戦直後はこれから鬼のような外人が大きな戦艦でやって来て船尾がぱかっと開いて女子供はみんな連れて行かれるという噂が寸時の内に流れた。
それを真に受けたのではあるまいが、家は屋根が吹っ飛び畳はキノコが生えて直ぐに住める状態でなかったので祖母と伯母は親戚に、母と私と弟は鹿児島の祖父母の所へ戦後疎開した。
鹿児島の郡部のほうで食べ物にも困らず、同年輩の従妹もいて毎日が楽しく伸び伸びと遊び暮らした。随分長く居たような気がするが多分3学期には長崎に帰っていたのだと思う。

 ★教科書に墨を塗る
学校に戻ると今まで使っていた教科書に墨を塗るという作業が待っていた。
例えば「神国日本」とか「鬼畜英米」などの箇所を墨で塗りつぶすのである。 一年生の私たちは何も考えず遊んでいるような感覚でキャーキャー騒いでいたような?  騒がないにしてもそれで心を傷つけられるということは無かったが上級生の人たちは今まで正しいことと教えられてきたことが180度変わって良くない事だとなってどんなに心を傷つけられた事だろう。何が正しくて何が正しくないか?その後の人生の中で影響は無かったのか?今ならさしずめ直ぐに心のケアーをしてくれるところだろう。そのことを思うと終戦時10歳〜20歳くらいの方の怒り哀しみが思いやられる。何も分からなかった一年生は不幸中の幸いであったかもしれない。
話は変わるけれど、同窓会で教科書に墨を塗った話が出たとき、記憶にないという人が居て「なんで?」と聞くと「そういえば入学式も無かった」という話で20年の初め頃から大阪は空襲がひどくなって逃げ惑っていたという。いろんな体験が有ったのだと知った。

 ★ヘレンケラー
戦後、長崎の高等学校と女学校は合併されて男女混合の高等学校ができた。そこに二つの高校の音楽を受け持った先生が長崎グリークラブを作られ付属の児童合唱団もできた。歌が好きだった私も児童合唱団に所属した。
戦後の長崎は、被爆地であるところから色んな方々が視察というか慰問というか見えるのである。その歓迎式典にグリークラブが歌を歌いに行くのが常であった。その中にヘレンケラー女史も見えられた。歓迎の歌を歌った子供たちの頭を撫でてくださった。
後で考えると歌も聞こえないし子供たちの顔も見えない女史が優しい笑顔を浮かべていたような記憶がある。その時はヘレンケラーの名前も知らなくて銀髪の女の人が珍しかった。

 ★ケーキと白いパン
世界で始めて広島と長崎に原爆を落としたことに多少の心の疼きがあったかどうかは分からないがアメリカからの慰問品が届けられることがあった。
まっしろいコッペパンを貰った時は初めて食べるふわふわのパンに感激した。それから、多分兵隊に配っていただろうケーキの缶ずめの配給もあった。
いわゆるフルーツケーキで、ほっぺたが落ちそうだった。戦争が終わったとはいえ食料は未だ不自由だった時代である。占領軍からの時々ある給食はとてもとても楽しみだった。

 ★D・D・T
戦後間もなくは、お風呂にもろくに入らなかったり不潔な環境のせいでシラミを髪に涌かしている子供もいた。それを駆除する為に定期的にDDTを撒布された。校庭に出て一人一人頭を突き出して白い粉を振りかけられるのである。臭くて髪がギシギシになって本当に嫌だった。吸い込む害もあったろうがお構い無しだった。

 ★闇市
戦後は先ず食べ物をということで、闇市ができそこへ行けばお金さえあれば色んな物が手に入ったらしい。姑は家は焼かれ子供二人抱えて夫は兵隊に行ったきり帰ってこず、それでも浪速の女の強さ、闇市で塩水に色をつけて瓶に詰めて売ったという。それが飛ぶように売れたと。その頃のおかんはみんな強かったのだと思う。そうしなければ生きていけなかったから。舅が帰ってきたのは戦後2,3年経ってからだったらしい。連れ合いは見たこともない男の人に「あのおっちゃん、怖い、怖い!!」と泣いて逃げ回っていたそうだ。舅は満州終戦を迎えその後の逃亡生活は激烈を極め食べられる物は蛇でもネズミでも食べたがカラスだけは煮るとぶくぶく泡が立って臭くて食べられなかったといっていた。

戦争は、いろんな人の人生を押し曲げ、無にし、得るところは何も無い。
私たちの親の世代が一番苦労をして兵隊に、銃後の守りに、そして戦後は国の復興にと苦労を重ねてきて今の日本がある。
もうすぐ、戦争体験者は居なくなるが、孫やその子供たちの時代が平和で、また日本に戦争の体験者を作り出したりしないことを願うばかりである。