戦争の記憶⑤ 記憶のかけら(戦中)

浦上の天主堂
浦上の天主堂はキリシタン迫害の歴史に耐え信仰を守り通した人々が1873年に禁制が解かれた後、レンガを一枚一枚積み上げて20年の歳月をかけ完成させた。その後約10年をかけて26mの双塔を完成させた。東洋一の壮大さを誇る天主堂であったが原爆により鐘楼ドームは吹き飛ばされわずかな堂壁を残すのみで無残に崩れ落ちた。写真は天主堂側壁の再現造型である。

先ほど「戦争を知らない子供たち」という歌がテレビで流れている時に戦争を知らない子供達ももう64歳になったと言うアナウンスを聞いて「ああ、そうなんだ!!」ととても感慨深いものがあった。戦争を知らない世代ももう還暦を過ぎているのだという事実を突きつけられたような気がした。
私のおぼろげな記憶や聞き知ったことも書き残す意義があるのかなと思って書き始めたことだけれど、今年中には完結したいと思う。

〔戦争中の記憶〕

隣組
 今も町内会として残っているが戦時中は隣組の役割が大きかった。大抵やかまし屋の兵隊に行くには年取った小父さんが組長で女の人(男の人は兵隊に取られた家が多かった)を指揮して竹やりの訓練やバケツリレーによる防火訓練が成されていた。
敵兵が上陸してきた時は女の人は竹やり(竹を斜めに切ったもの)で戦わなければならないとして敵兵に見立てたわら人形を走っていって「えい!と」突くのである。
バケツリレーは焼夷弾が落ちた時に火を消す為である。今から思えば噴飯ものだけれど「あほらし」と思っても顔には出さず真面目にお母さん方はやっていた。風邪を引いて休んだりすると喧し屋の組長が「風邪を引くなど、この非常時にたるんでおる」とか嫌味を言いにくるのである。
当時、「非国民!!」という言葉を誰もが恐れていた。

★灯火管制
 当時、夜は爆撃の目標になるからと理由で家の外に灯りが漏れないようにしなければならなかった。
伝統のかさに黒い布をぐるりとまわして手元だけ照らすようにしていた。ラジオの音も外に漏れてはいけないので小さい音でかけていた。
いつでも、逃げ出せるように枕元に着替えとランドセル、防空頭巾を置いて寝ていた。窓ガラスには、紙を張って割れても飛び散らないように工夫していた。

★強制疎開
 戦争も末期になって段々敵機が日本の上空に現れて機銃掃射や焼夷弾を落とすようになると、延焼を防ぐ為に区画を区切って強制疎開というものが行われた。建物をあらかじめ壊して火をそこから先の延焼を止める為の作戦だ。
我が家は不幸にもその強制疎開になった。私が一年生になったばかりの頃だから、終戦の3ヶ月ほど前だったろうか?嫌も応もなく何日以内立ちくべと通達が来る。我が家は長崎の中心地にあって昔は幕府の役人だったとかで、木造3回建て、地下室もある大きな家だった。
おおわらわで立ち退く先を探したことだろう。それで、浦上の天主堂の近くで離れを貸してくれることになりに荷物の整理をしていると、親類のが疎開してくるのお貸しできませんと断られまた探して西山の方へ借家を探して引っ越した。
そこで私の一家は、命を拾ったのだった。大浦は原爆の爆心地でもしそちらに行っていたら、今こうして生きていられたかどうか分からない。
長崎は焼夷弾の被害はあまり聞かなかったが大阪はひどくて連れ合いの家は学校から帰ったら無かったという。
舅は連れ合いがお腹にいる時出征して7年間戦地に居たそうで、姑は子供二人抱えて大変だったろうと思う。
  神戸に住んでいた友達は、大阪の空襲の時は、まるで花火のように綺麗だったといっていた。

★配給
 食べ物が不足して、配給の物もだんだん訳のわからぬものになっていった。麦などはいいほうで、 油を絞った後の大豆カスや、とうもろこしの粉、子供の頭かと思うほど大きいサツマイモ(大きいばかりで甘みも無い)かと思うとバケツにいっぱいの砂糖、当時カルメラ焼きの鍋が家にあった。そんな中でどうしても喉に通らなかったの「海草団子」こつんこつんで不味く噛んでも噛み切れなかった。戦時中食べ物を吐き出したのはあれだけだった。
母達の苦労は並大抵ではなかったと思う。田舎の方に着物を持っていって食べ物と代えて貰う。母の着物はこのとき大抵消えてしまった。
当時の人たちの口癖は「白いご飯をお腹いっぱい食べたい!!」だった。

学童疎開
 長崎では学童疎開はなかったので、私はずっと家族と一緒だったが、都会などでは学童疎開といって子供たちだけが田舎の学校に団体で疎開するということが有ったらしい。慣れない生活、親と一緒でない不安、言葉の違いや食べ物も十分でなくみんな泣いて暮らしたという話も残っている。
連れ合いも四国の方に祖父母がいて疎開していたがその土地にすっかり馴染み吉野川のほとりで材木屋の材木を川に流しておじいさんが謝りに行ったという話しや川の蟹を捕って焼いて食べたとか、土地の子供ともすっかり仲良くなって様子を見に来た母親にも「帰るよ」と言っても「さよならっ」と後追いもしなくて母親のほうがさびしかったという話を聞いた。
当時は子供も「小国民」と呼ばれて、心細くても公に泣くことも許されずに頑張っていたのだと思う。連れ合いのような例外もあるだろうけれど。