戦争の記憶④ 原爆の後

原爆が落ちた後、家は屋根の瓦が飛び、窓ガラスが粉々にたって畳や柱に突き刺さりとても住める状態ではなかったので、水源地横の山に掘られた防空壕で、隣組の人全員で終戦まで暮らした。
暑い夏のこと、洞穴に少なくとも7,8軒の家族が暮らしたのだから今となっては想像もつかない。
それぞれが、布団を持ち込んでの雑魚寝。食事はどうしていたか?は全然覚えていない。ただ、母は大変だったろうと想像はつく。
祖母、出戻りの伯母(祖母にべったりで家事等出来ない年取ったお嬢様)1歳になったばかりの弟、7歳の私を抱えて30歳の母は奮闘していた。
三菱造船に勤めていた父は会社の整理に追われて帰ってこない。父は会社で被爆しその後急性白血病になり頭の毛が抜けた。
町は夜になると異様な臭いがした。「あれは、ピカドン原子爆弾をそう呼んでいた)で亡くなった人を学校の校庭に積み上げて焼きよんなさっとよ」と教えてもらった。死体を積み上げてガソリンをかけて燃やしていたのだ。
原爆で亡くなった人たちの中には直ぐに死んだ人ばかりではなく、とても水を欲しがりお水を飲ませてあげると直ぐ息絶えると話しも聞いた。
従兄は電車を待っていて原爆が落ちた瞬間頭を抱えて地面に伏したが頭を上げたとき生きていたのは自分だけだったと言う話をして腕の中に残っているガラスを触らせてくれた。それは、そこだけが硬くて表面はケロイドで引き攣れていて怖かった。
別の従兄は、長崎大学の医学部で丁度爆心地にありその日学校に行っていて、帰ってこないので伯父が探しに行ったら建物も何も無くただ、骨が整然と並んでいる所があったので小さな骨を少しずつ拾ってきたと言っていた。その焼け跡で産気ずいている女の人があったので持って行ったおにぎりをあげた。そんな時でも生きている人も生まれいずる生命もあったのだと、どうぞその時の生命に神の庇護があったことを祈らずにはいられない。
9日に原爆が落ちて6目日、天皇陛下玉音放送があって日本は負けて戦争は終わった。
その時、大人や上級生達は泣いていたけれど、小さい子供は、これで空襲警報も灯火管制(夜、灯りが外に漏れないようにする)も無くなったのがうれしかった。
日本が負けると町には、鬼のような外人の兵隊が大きな軍艦でやってきて女子供をさらって行く、大きな軍艦の後ろがパカッと開いてみんな押し込んで連れて行かれる、と言う噂が飛び交った。
それを信じたわけではないだろうが、なにしろ家は直ぐに住める状態ではなかったし、食料もなかったので祖母と伯母は親戚へ母と弟と私は母の両親が住んでいた鹿児島へ、戦争が終わってから疎開することになった。
行く前に家をのぞいたら、膨れ上がった畳にキノコがいっぱい生えていた。
長崎駅で汽車に乗ろうと行ったが、凄い人で窓から乗り込む人、窓にぶら下がっている人、とても子供ずれの女が乗り込める状態ではなく、翌日父が送っていくことになってようやく出発した。長崎から鹿児島まで普通1日位だと思うがその時は、途中で鉄橋が壊れていて歩いたり汽車が石炭切れでうごかなくなって、何駅分か歩いたりと大変だった。夏のことで持ってきたおにぎりは腐ってしまうし食べ物を売っているところも無く困っている時、乗り合わせた若い兵隊さんが「小さい子供に罪は無いのに可哀想に」と乾パンの袋をいくつも下さった。「私はこれから東京に向かい、もう一戦するのでこれは、もう要らないから」ということだったけれど後から考えれば、皇居前で自決した兵隊も多くあったように聞いているのでそうだったかもしれない。痛ましいことがいっぱいあったのだ、戦争の影には。
頂いた乾パンの袋の中には小さい金平糖が入っていてお菓子などには、ずっと縁の無かった私はとても嬉しかったのでよく覚えている。
1週間位掛かって、鹿児島にたどり着いた時は、ぼろぼろ真っ黒の難民さながら、祖母たちがびっくりしていた。
鹿児島で暫らくお世話になっているときは食べ物もさすが田舎で豊富にあってひもじい思いもしないてすむし、従妹たちと遊んで暮らして楽しかった。
どれくらい鹿児島に居たのかははっきりとは覚えていないが家が住めるようになったからと父が迎えに来て長崎に帰った。