戦争の記憶 ③ 兵隊の伯父ちゃん

オリーブの実が12年目に初めて成った

兵隊の伯父ちゃんと呼んでいたのは、母の兄である。
私の記憶にある伯父ちゃんはもう兵隊さんであったから、きっと支那事変から出征していたのだろう。もう、それを確かめる人は誰も居ない。いとこの中で私が年長者である。その私の記憶も幽かなものである。
子供が大好きで、優しくて力持ちで、絵が上手で、書も上手で、がっしりとした偉丈夫であった。
晩婚で自分の子供が無かったので、その頃たった一人の姪っこの私をとても可愛がってくれた。
太平洋戦争が起こるまでは、休暇で長崎に帰っていたこともあった様で、母と私を連れ出して遊びにいったりしていたらしい。
三人で映画を見に行った時、私が退屈してぐずったらさっさと私を抱いて出てしまった。母が「あの映画を楽しみにしていたので最後まで見たかった」というと「子供が嫌がっているのに映画なんか見ておられん」と答えたと母が言っていた。
母も姑、小姑と同居で、久しぶりに映画を見るのを楽しみにしていたのだろうと思う。
よく、戦地から絵葉書や慰問袋に入っていた人形などを送ってくれた。
「早う、Mちゃんの手紙の見たか」と言っていたとか。
私が小学校入学の時、トタンで作った針箱を送ってくれた。赤く塗った地に薔薇の花が描いてあった。
その頃、伯父は満州に居たので、まだそんな物を手に入れることが出来たのだと思う。
その後、戦況は益々厳しくなり、沖縄へ転戦することになって伯父は死を覚悟したのだろう、立派な遺書が残っている。
巻紙に筆で書いた遺書のコピーを今私は母の遺影と共に置いてある。その時伯父は35歳である。
晩婚だった伯父は、新婚間もない妻と父母を残し、さぞ無念であったろう。
祖母が亡くなった時、お仏壇を整理していたら私の書いた手紙が出てきた。
「伯父ちゃんが私の手紙を大そう待っておられたのに、そのころ私はお手紙をよう書きませんでした。おじちゃんのご仏前にお供えしてください。」と書いてあった。書いた本人は忘れていたが、祖母は大切に仏壇に保管してくれていたのだ。
横井庄一さんが1972年にグアム島で見つかって帰って来られた時、伯父ちゃんの沖縄転戦は間違いでどこかで生きていてくれたらと切実に願った。
日本中で私と同じ気持ちを持った人は多かったと思う。
平成8年に沖縄に行って「平和の礎」の碑に伯父ちゃんの名前を見出した時「あぁ兵隊の伯父ちゃんは沖縄で亡くなったのだ」と思った。
最近、沖縄戦線で軍隊が人民に死を強制したとされる噂が出ている。
戦後、鹿児島に居た祖父、祖母のもとに沖縄の人が訪ねて見えて「Oさんに助けて頂きました」と伯父の最後の様子を知らせてくれた人があったと言うことを伯父の名誉の為に書いておきたい。
冷静に考えても、あの混乱の最中に軍の命令が端々まで行き届いていたとは思えず、兵隊は「生きて縄目の恥を受けず」と言う教育は成されていたのでそれを一般人にも押し付けた人はいたかもしれない。それも好意だったかもしれず戦争を知らない人たちが聞きかじっただけで言うのは許せない気がする。何しろ、戦争中は鬼畜米英といって捕まえられると何をされるか分からない怖いものだと子供でも思っていた。
なにが正しくて、何が正しくないのかは、その時その場に居た人にしか言えないのではないだろうか?
19年から20年の頃の日本は国全体が狂気の中に居たと思う。

遺書 
   「大君の御為 此処に名誉の死を遂ぐるは 不孝者のせめてもの御孝養と
    自慰致し ご両親様の御健康、ご多幸の末長からん事を御祈り致します。
    艶子の事に関しては誠に気性優しき女なれば 何卒本人の意思を尊重し
    宜敷く善処被下度 再婚の意思なき場合は御両親様の膝下にて御愛撫被下様
    御願い致します。
    義治は病弱の身体に兄の戦死に依りその全責任を負わされて気の毒なるも
    何卒御両親様の事よろしく御願す  健康第一を信條致し無理せぬ様千年の
    齢を重ね御両親様への孝養御頼み致す
    艶子は僅か二ヶ月の生活の間よく自分の様な男に仕えた事をうれしく
    思っています  何等のたのしき想い出もなく若くして苦しき事のみ
    然しお前には此の決心は充分に出来ていた事だろう
    両親の事よろしくたのんでおく
    通夫 栄子殿
    河野家百年の繁栄と御二人の萬歳を祈り 義治の事よろしくお頼み致します
    美枝ちゃんへ
    健やか幸福に大きくなって それのみを祈る
    今一度逢いたかった 伯父の顔を忘るなよ