戦争の記憶②孫への手紙

広島に行ってきたんだね。
今年の夏をパパやママが選んでくれたことは本当に良かったと思っています。
丁度小学校の高学年で原爆資料館に行って、戦争について考えることは今後の平和についての貴方達の基盤になると考えるからです。
今の日本はとても平和で想像もできないけれど、ばぁばが生まれる頃から小学一年生までは戦争をしていました。
ばぁばが生まれたのは、今の韓国でその頃は韓国は日本の統治下にあって貴方達の曾お祖父さんが勤めていた銀行から韓国へ転勤で行っていたからです。その後、また転勤で今の北朝鮮清津に移りましたがとても寒いところでばぁばが風邪ばかり引いているので長崎に帰ってきました。
その時帰って居なければ戦後北朝鮮から引き上げは大変だったようです。
ばぁばは朝鮮の記憶は、殆どありません。
幼いときの記憶は長崎からです。
記憶にある頃は戦争の真っ最中で、あまりお菓子とかは無くお砂糖も配給でそのお砂糖は丁度生まれた弟にああちゃんのお乳が栄養状態も悪いので出なくて砂糖湯を飲ませるために使っていたのでああちゃんが泣きながら「ごめんね、赤ちゃんに上げてね」と言ったのを覚えています。
戦争も終わりの頃は家の中の金気の物はお鍋も指輪も供出といって出さされました。「鉄砲の弾を作るんだ」ということです。
今考えればそんな馬鹿な!!と思うでしょうがうっかりそんなことを言えば「非国民」として特攻に連れて行かれるというような恐ろしい国だったというか、狂っていたんですね。
ご飯の時は「兵隊さん、ありがとうございます、頂きます」と言っていました。
子供も銃後の兵隊といわれちゃんと覚悟を持つように教育されました。
ばぁばは幸いというか一年生で終戦だったのでまだ一日で価値観が180度変わったという悲惨さは味わいませんでしたが上級生や中学生の人たちは昨日まで正しいと信じていたものが今日からはとても悪い考えだといわれとてもショックだったと思います。
貴方達はとてもいい時代に生まれ育ち、戦争の悲惨さを全く知らないし、もう直ぐ戦争を知っている人たちは居なくなるわけだからそんな時代になっても戦争は愚かなことだと知っていてもらいたいと思います。
今度、貴方達と長崎に行きたいと思っています。ばぁばが元気な内に出来れば8月9日に。暑いけれど原爆の日の長崎に行って熱い長崎を経験して貰いたいと思います。