ヘレンケラーに会った。

「ヘレンケラーに会った事あるよ」と言うと子供達が
化石を見るような目で見たものだったが、戦後長崎には
被爆地の視察、慰問と言った目的で大勢の外国の賓客が
訪れた。私は長崎少年少女合唱団に入っていたのでその度に
歓迎の式典で、日本の唱歌を歌った。
その慰問団の中にヘレンケラーさんが居た。その時は歓迎の
式典で「ヘレンケラーのおば様は優しく強い人」というような
歌(指揮の先生の作曲だったか定かに覚えてないが)を歌った。
終わるとヘレンケラーさんはひとりひとりの頭を大きな手で
撫でてくださった。その時通訳の人がヘレンケラーさんの
言葉を伝えてくれたが詳しくは覚えていない。
ただ、白髪で優しそうな大きい人という印象だった。
終戦後の外人の人は、子供をさらうどころか皆、優しかった。
被爆地ということで、色々のお見舞いの品も頂いた。
真っ白いパンや、かんずめのケーキといった珍しいものが学校
で配られた。真っ白い柔らかいパンのナント美味しかったことか!
ケーキ(ドライフルーツやナッツの入った)なんて物心ついてから
初めて食べたような気がする。もっと小さい時は食べていたの
だろうけれど、幼稚園、小学校に入った頃は、母が作るかぼちゃ
の入ったホットケーキが最高のおやつだったのだから。
戦時中の食糧難はひどいもので、サラリーマンの我が家は母が
着物を持っては農家をたずねて食糧と代えてもらっていた。
配給の食糧はだんだん酷くなってお米など滅多に無く、母親は
みんな苦労したと思う。子供たちも「欲しがりません。勝つまでは」
のスローガンを言わされていた。どうしても飲み込むことが出来な
かった物に海草団子というのがあった。海草を砕いて団子にした物
だが、噛んでも噛んでもこつこつで咽喉の方に収まらないのだった。
母に内緒でそっと吐き出して捨てたのは後にも先にもあれだけだ。
見つかれば、兵隊さんのご苦労を思いなさいと叱られるからだ。
でも今ならあんな物は家畜でも食べないだろう。
そんな状態でも国民全員ヒステリー状態でいつか神風が吹いて
勝つ!と思っていたのだから、戦争は恐ろしい。
だんだん、戦争を知っている世代の者が少なくなっていく。
孫達が戦争に行くような日本には、絶対してはいけない。


夏の海の夕焼け   徳島にて