終戦、そして・・・

一発の原爆によって、長崎では7万4千人の人が死亡し
7万5千人の人が負傷したといわれる。最もその後、傷が
悪化して亡くなった人もいようし、放射線の影響から、
発病したした人もいる。現在にわたる61年間の被害者の
実態は、国が全てを把握しているとは、思い難い。
父は、三菱造船所に勤めていて造船所で被爆した。急性
白血病と診断されたのは、何ヶ月も経ってからであった。
髪の毛が抜け、歯茎から血が出ていた。小さかった私は
詳しい事は覚えていないが、しばらく会社を休んでいた。
被爆したのは鉄筋の事務所の中だったらしいが、直ぐに表に
出て負傷者を運んだりしたらしい。幸い父はその後完治して
76歳まで生きた。バイパス手術を受けていたが、心臓近くの
血管が破裂して大量に吐血して死んだ。
母は、肝臓癌だったが、進行が遅く、88歳まで生きた。
母も肝臓破裂で2度の大喀血で、亡くなった。
今、裁判のあっている特別手当を申請したが、3年目に却下の
通知が届いた。書類も色々そろえねばならず、再申請する気力
は無かった。例えば、母が大阪に来るまで長崎に住んでいた証明
と言うものが要る。所が、昭和何年かに住民登録や戸籍の整理が
行われて、母は大阪に来てからの証明しかない。長崎に問い合わ
せても焼却処分したという。ましてや私は11歳で大阪に来て
早い時期に手帳を取得していたから良いようなものだが、
そうでなかったら私が長崎で被爆したいう記録は何処にも無いので
ある。広島、長崎に原爆が落ちた時誰が住んでいたか、県庁も
政府も知らないで済むのだろうか?そして、無い書類を出せという
のもおかしい話と思う。そんなことも分っていないのだろうか?
母の場合は、私がまだ少しは覚えている齢だったが私がもっと
年老いてボケたら、子供たちには何も分らないだろう。
被爆者はだんだん少なくなる。まぁまぁと言っておけばそのうち
誰も居なくなる。と政府は思っているようにしか見えない。
小泉さんは、ずっと平和祈念式典に来ていると強調するけれど
前夜行われる被爆者の会には、顔を出した事が無い。
私が出席した年だけかと思っていたが一度も来た事は無いという。
私達でさえ、もっと年配の方の生の声を聞いて感じることが多いの
だから、目立つ所にだけ顔を出していないで本当の被害者の声を
聞いて欲しい。そうしたら、アメリカでプレスリーの真似なんて
出来ないと思いませんか?書いているうちにだんだん激してきた
ので止める。  でも、又明日。