長崎原爆の日

yosinonosato2006-08-09

正式には「長崎原爆被害者慰霊平和祈念式典」と言うらしい。
11時にTVをつけて、一緒に黙祷を捧げた。
61年前の今日、私は小学1年生だった。その日は夏休みの
登校日で、虫の知らせというか、どうにも行きたくなくて
散々駄々をこねて大切な防空頭巾も忘れて登校したのだった。
丁度その時は教室で先生のお話を聞いていた。突然、雷を一度
に何個落としたらこんなに光るかという位、強烈な光に包まれ
先生の「机の下に入ってっ」と叫ぶ声と同時にどーぉ~んと大き
な音と共に校舎が跳ね上がり揺さぶられ、建具はすっ飛び硝子
は粉々になって飛び散り、床といわず、壁といわず突き刺さっ
ていた。どれくらい経ったか、先生の「校庭の防空壕に入り
ましょう」と言う声に机から這い出してみると先生の顔は血だら
けだった。ご自分は顔を覆う事もせず子供たちを守るため
飛び散った硝子をまともにうけられたのだろう。
何が起こったのか分からないがとにかく怖くて怖くて先生の
静止も聞かず、ただ母の所へ早く帰りたい一心で壊れた建物の
隙間をかいくぐり、家の方に走り出した。
長崎商高と長崎高女の間の広い道はしらしらした明るさで太陽
までも白く光り、ちらちらと光るものが、静かに舞っていた。
町は静まり返って人っ子ひとりいなかった。友達と二人手を
つないで走る私達の影だけがついてきた。あの光るものは
後になって考えれば、死の灰だったのだ。
家に着いて母の顔を見ると今まで張り詰めていた気持ちが緩んで
わっと泣き出して、母にむしゃぶりついた。
「今、おばぁちゃんとM(弟、1歳)を防空壕に送ってから
お前を迎えに行こうと思うとったとよ」と母は言った。
水源地の上に横穴を掘って隣組防空壕が作ってあった。
そこで、10軒あまりの隣組の共同生活が始まった。
何しろ、家は屋根に穴が開き、建具は壊れ硝子は飛び散り住める
状態ではなかった。 そしてしばらくすると雨が降った。よく
言われる黒い雨である。母達は大変だったと思う。子供達、年寄り
を抱え、普通でさえ大変なのに狭い防空壕ですし詰め状態、食事
トイレ、夜は真っ暗の中どうしていたのだろう。
家の方は見に行くと畳にきのこが生えていた。 夜は、街のほうが
ぼぉっと明るく、学校の校庭で死体を焼いている異臭が漂ってきた
医大にいっていた私の従兄が帰ってこないと伯父が探しに行くと
教室で講義を受けていたのか、お骨が整然と並んでいたという。
医大は爆心地なので、一瞬にして骨になったと思われる。小さい
骨を一つずつ拾ってきたと伯父は言っていた。その側で妊婦さんが
いて、持って行ったおにぎりをあげたとも言っていた。
それから、1週間後日本は全面降伏をして戦争は終わった。
長崎は原爆の後の悲惨な状態の中で戦争が終わったと聞いても
これから、外人の兵隊が上陸してきて「女子供はみんな連れて
いかるる」という流言まで飛び出した。何しろ、家もなく
食べるものもなく私と弟を連れて母は実家の疎開先の鹿児島に
一時身を寄せる事になり鈴なりの汽車に乗り、出発した。
1日目、乗る事が出来ずとぼとぼと帰って来た。2日め、父が
送ってくれることになったが余りの凄まじさに結局父は鹿児島迄
送ってきた。普段なら、1日で着くところ途中で歩いたり、汽車が
停まってしまったりで、食料も無くなりどうしようかと思っていた
時乗り合わせた兵隊さんが「罪も無い子供がこんな目にあって
可哀想に」と乾パンを下さった。その袋の中には、金平糖が入って
いてとても嬉しかった記憶がある。
兵隊さんは、「私達はもう一度決戦するのです。」と言っていらした
がどうなされたであろうか? 続きは、また明日。