長崎に原爆が落ちた日

今日は、第69回長崎原爆平和祈念日だ。
その時私は小学一年生。夏休みの登校日で上長崎小学校の教室にいた。先生のお話を聞いていた。
空襲警報は解除中であった。
突然、強烈な光に回り包まれた。
先生が「机の下に!」と叫ばれ、潜り込んだ瞬間地面がぐらぐら揺れものすごい音がして、校舎が揺れ動いた。
その間どれ位かは分らないが、そろそろと顔を出した一年生が見たものは、血だらけの先生の顔!
窓は吹っ飛び、割れたガラスが壁に柱に突き刺さり床も教室も傾いていた。
先生(若いきれいな女の先生だった)が、「さ、防空壕に行きましょう」と言われる声も聞かず、戸や窓が壊れて廊下をふさいでいる中を潜り抜け、私は我が家へと走った。

その時の不思議な光景。

「真夏の雪」

お日さまは 薄い紗をかぶったように白くみえた。

わたしのみじかい影が 長崎高女のかべに映っていた。

町は静まりかえって いつもの蝉の声すら聞こえなかった。

まるで町の中から人も蝉も命あるもの みんな消えてしまったようだった。

先ほどの地獄のような光景は夢をみていたのか?

しんと静まりかえった道を

「はやく、はやく母のもとへ」と走る わたしの上に

真夏の雪がきらきら光りながら 降っていた。



これが、私の小学一年生の夏休みの原爆体験だ。
家に帰ると母は、まだ赤ん坊の弟をおんぶして、祖母と伯母を連れ防空壕へ向かう所だった。
「おばあちゃんたちを防空壕に送ってから、迎えに行こうと思うとったとよ」
という母の言葉を聞きながら、母に縋りついて母の胸を叩きながら、やっと解放されたように泣きに泣いた。
防空壕での生活をどれ位したか、定かではない。
家は、屋根のかわらが吹っ飛び、その後降り続いた雨に畳からはキノコが生えていた。
終戦後、母と私と弟は母の実家の鹿児島に祖母と伯母は親戚に戦後疎開をした。
父は、勤めていた三菱造船で被爆し、その後白血病を発症して入院し髪の毛が抜けたらしい。

小学校1年生だった私が後期高齢者となり、「戦争を知らない子供たち」がほとんどの人口を占める現在の日本。
政治家も、ほとんどが「戦争を知らない世代」だろう。
安倍さんが総理になって、いま日本は何処へ向かおうとしているのか?
とても恐い。孫たち世代がどうなるのか?

今こそ、日本は世界唯一の被爆国として世界平和を訴える時だと強く思う。
平和祈念式典(これは、今年の映像ではありません)

浦上天主堂

毎年、今日は同じ話をしていると思う。
でも、戦争を知らない人が一人でもこの事実を知って貰えたらという想いでこれからも書き続けようと思う。

話は代わって台風
こちらは、ずっと雨は激しくは無いが降ってりる。
買い物帰りに車の中から見た吉野川は、河原がまったく無くなって大河となっていた。もう直ぐ橋が飲み込まれそうだった。これも、以前の映像