第九の練習

ピンクのコスモスも咲き出した

今日は、第九の3回目の練習日。11時頃に家を出て2時に長女と阪神の前で待ち合わせて軽食を摂って会場へ行く。今日は、いつもの有本先生がお休みで代わりに大谷圭介先生という若手の先生。先生が代わると指導の仕方もちょっと変わって新鮮。今のクラスはずっと有本先生できっとメンバーもずっとこのクラスの人が多いと思うので、練習も阿吽の呼吸みたいなものがある。大谷先生は初心者クラスの指導をされているとのことで、教え方もドイツ語の発音などキビシイが愉しかった。

話は変わるけれど、私は歌うことは小さい時から大好きだ。不思議なことに小学校の頃から音楽の先生に恵まれている。戦後すぐ、長崎東高校長崎西高校の音楽を受け持っておられた堤温先生が両校からメンバーを募って長崎グリークラブを創られた。そのとき小学生から付属の児童合唱団もでき、どういう経緯だったか覚えてはいないが、私も児童合唱団に入った。このグリークラブ被爆地である長崎を訪れる外国の人(それは視察であったり、慰問であったりした)の歓迎の式典の時にいつも歌っていた。勿論、児童合唱団も一緒に出演した。この時、私はヘレン・ケラー女史に会っている。歌が終わって頭を撫でて下さった。
この堤先生にはとても可愛がって頂いたが、5年生の初めに父の転勤で大阪に来た。墨江小学校である。この小学校の音楽の選任の田守先生は頭のてっぺんが光っているその頃の私から見ればオジイサンに見えたが、とても熱心な先生で音楽部で、童謡や唱歌などを教えて貰った。合唱コンクールにも出た。
中学になると、教頭の畑中先生が音楽の先生で直接の授業は持っておられなかったが、放課後に歌を教えて貰った。音楽担任の小島先生も可愛がってくださって、樋本栄のリサイタルに連れて行ってくださり、将来こんな歌を歌えるようになりなさいね、と言ってくださった。クラシックの音楽会に初めていったのでとても印象に残っている。 畑中先生は高校に進学する時、あそこの教頭は友人だからと紹介状を書いて下さった。
高校に入って当然音楽部に入り、野村先生に教わった。野村先生は若い、ハンサムな先生で、生徒とも気軽に付き合ってもらっておうちにもクラブの友人達と遊びにいったりした。もう一人、先輩で若月さんという、その後作曲家になられた先輩が音楽部の指導をして居られて、とてもお世話になった。卒業する時、野村先生が「音大に行くのならピアノも弾けないといけないので一年浪人する気なら、責任を持って指導してあげるから」とおっしゃて下さったのだが、その頃の家の事情を考えるとピアノを買ってとか、一年浪人するとか親に云えなくて諦めたのは、私の一生での一番の悔いだ。だから、娘が音大に進んだ時は本当に嬉しかった。その娘が音大で野村先生に出あって教えて貰ったのも運命かも。
今日は、長々と書いてしまった。疲れていたのに書き出すと色々思い出して懐かしい!!