第65回長崎平和祈念式典


65年前の今日、私は上長崎小学校の教室で被爆した。夏休み中の登校日でお帰り前の先生のお話を聞いていた。担任の先生のお名前は覚えていないが、お顔はおぼろげに覚えている。若くてきれいな先生が大好きだった。その瞬間、目が眩むような閃光と、どぉおんという耳をつんざくような音と共に地面が上下にゆれ、建物自体が跳ね上がり揺れ、瞬時の内に建物の中は破壊された。閃光が走った時点で「机の下へ」という先生の声に日頃から訓練されていた一年生は、さっと机にもぐると同時にばりばりっ、ばらばっとガラスが砕け散りドアや窓が吹っ飛び柱や床や柱や木という木に、ガラスがびっしりと突き刺さった。暫らく机の下にもぐって身体を丸めていた私達が「さぁ、防空豪に行きましょう」という先生の声に、顔を上げたときは先生は血だらけ、先生は生徒を守るためご自分はあのガラス飛び散る暴風の中に身をさらしていらしたのだった。恐怖と血だらけの先生を見た私は先生の悲痛な声も耳に入らず、ドアや窓が折れ重なりガラスが突き刺さった廊下を走り潜り抜け、必死に「母の元へ」と走っていた。このときの様子は今までも8月9日の度に書いているが、何度でも書こう!!あの閃光と爆音の中に7万余の命が失われたということは、結局私もあとになってから意識の中に刻まれたようなものだから、何度でも言って戦争を知らない人たちに呼びかけなければいけないと思うから。それが、あの長崎で生かされた私達の義務だとも思うから。
あの日、不思議な偶然で亡くなられた方、生かされた方がある。生かされたものにその後の苦しみが無かったとは言えない。一時は「被爆者」という言葉が一種の差別語となっていた時代もあった。最近やっと健康被害についての認定も多くの方が認められるようになった。65年も経ってやっとである。
父は三菱造船で被爆し、その後「急性白血病」になり髪の毛が抜けた。しかしその後生きながらえて74歳まで生きて最後は動脈破裂で血を吐いて死んだ。母も肝臓癌で長らく治療して、入退院を繰り返しているうち痴呆になり末期は治療もままならず血を何度も吐いて最後は肝臓破裂で亡くなった。母の肝臓癌は認定を申請したにも拘らず、認定されなかった。。長い間待たされた挙句の拒否だった。当時、母の介護をしながら再申請する気力もなかった。被爆手帳があるにもかかわらず、本当に長崎で被爆したかの近所人の承認がいるかとか、何年から何年まで長崎に居たかとか(これには、長崎に問い合わせたところ、昭和60何年だかに帳簿が改正破棄されて母の記録は大阪に転入した23年からしかなくてそれも長崎から転入したという記録は無いという返事でどうしようもなかった)国の組織のむちゃくちゃさを感じただけだった。今思えば大阪、または長崎の被団協の方に相談すれば良かったのかなと思うが被爆した市に被爆した人の記録が無いのかと絶望した。私世代が病気しても大阪生まれの大阪育ちの子供達に何が出来るのだろうと思う。被爆者の人ももう数も少なく私が一年生でどうにかおぼろげな記憶がすこしはあるが、1歳だった弟には何の記憶も無いだろう。国はただただ、切り捨てる為の手立てを考えることではなく歴史の中に埋もれていく被爆者の言葉をもっと聞いて欲しいと思う。
長崎は、今日は祈りの日、反原爆の日で町中が熱い。方々で高校生や一般の人が原爆反対の署名や寄付を集めている。ライブを行っている。体験を若い人に語る人が居る。そんな熱い長崎を孫達に体験して貰いたいと思っているが彼らには彼らの生活がありこの私の望みはいつ叶うか分からない。でも、いつか彼らが自分の意思で、ばぁばの思いを実現してくれることを願っている。