長崎 原爆の日

昨日の開会式の甲子園 長崎の原爆が落ちた日もこんな青い空だった。

64年前の今日、私は上長崎小学校の教室に居た。
担任のA先生のお話を聞いていた。その日は小学校の登校日だった。
空襲警報は解除になっていた。
その日の朝、一年生の私は虫が知らせたとでもいうのか、いつになく学校に行きたくないと駄々を捏ねて泣いて母や集団登校のリーダーの六年生のお姉さんを困らせた。
みんなに励まされて遅れそうになって大切な防空頭巾も忘れていった。
学校は木造2階建てで一年生は1階であった。
もう直ぐ帰る時間で先生にいろいろ注意などを聞いていたのだったろう。
11時2分、突然ものすごい光が走ってと思う間もなく雷が一度に100個も落ちたような衝撃で教室は震え、窓も扉も瞬時に飛び散った。柱にはガラスが隙間なく突き刺さり、床もガラスの破片でいっぱい。生徒達は光と同時に「机の下へ」という先生の声に机の下にもぐった。
どれ位の時間だったか、恐る恐る顔を出してみると先生の顔は血だらけだった。
先生の「早く防空壕へ」と叫ばれる声を振り切って倒れ重なっている戸や窓ガラスの下をかいくぐって、学校を飛び出した。早く母の元への一心で。
高商と女学校の間の広い道は人っ子ひとりいなかった。
しんとして何の音も聞こえなかった。ただしらしらとしていて、ちらちら銀の羽のようなものが舞っていた。町の中から全てが消えたように思えた。
家に駆け込むと母の胸に飛び込んでわぁわぁ泣いた。それまでの緊張が一気に解けて恐ろしさに泣くしかなかった。
あれから、64年私の小さい記憶は私が生きている限り薄れることは無いが、もっと重大な現実に直面した方々は段々少なくなっていく。今年も鬼籍に入られた方々の名簿が平和の塔に納められた。
米国オバマ大統領の「核無き世界へ」という提言に賛同の意を表して被爆者の活動が続く。
過去最多の29カ国の政府関係者の参列があったそうだ。世界がそのように向かっているならば尚更世界で唯一つの被爆国である日本の政治家は誇りを持って「核は持たない」といって欲しいと思う。
平和祈念式典の平和の鐘の音にあわせて黙祷を捧げた。