62回 終戦の日 伯父の遺書

今日は、朝から暑い。今年になって一番の暑さだ。 今日は62回目の終戦の日とあってTVでも関連の番組が多く、特に沖縄での最後決戦の時の話は、他人事でなく涙を禁じえない。私の大好きだった伯父さんも沖縄で亡くなった。もう、親類の中でも伯父さんを知る者は私だけとなった今、伯父さんのことを思い出してあげることが一番の供養になりここに書くことで、私が居なくなっても誰か思い出してくれればいいと思う。
伯父さんは明治43年生まれ、父と同い年だったのでよく覚えている。無類の子供好きで
甥姪の中で伯父さんが兵隊に行く前に生まれていたのは私だけだったので、とても可愛がってくれた。細かい事は、私も小さかったので分らないが、結婚して直ぐに兵隊にいって自分の子供は無かった。「兵隊の伯父ちゃん」と私は呼んでいたので私が物心がつくころにはもう兵隊さんだったのだろう。ただ、職業軍人ではなかった。初めは、満州にいたらしいが、終戦近く沖縄に配属になり、その時「死」を覚悟して遺書が残っている。敗戦間直よくぞ届いたと思う。母が生きていた時、祖母の法事で島根に行って初めて見せてもらった。叔母が綺麗に表装して木箱に納めてくれてあった。巻紙に筆で、それは立派なものだった。今考えると伯父はその時、35歳 どんな気持ちでこれを書いたのだろうか?人生一番充実して花の時代を軍の命令で死にゆく人たちの気持ちを思うと泣けて仕方がない。私の手紙をとても楽しみに待っていてくれたのに、結局生きているうちに届ける事は出来なかった。祖母が亡くなったときに遺品を整理していたら、「生きておられるうちに書けなかったので、伯父ちゃんの位牌にお供えしてください」という私の手紙が出てきた。祖母が大事に取っておいてくれたのだ。遺骨は帰ってこなかった。箱の中には名前を書いた紙が入っていたそうだ。終戦後何年か経って沖縄の方が鹿児島に居た祖父母を訪ねて見えて、伯父が現地の人たちの面倒を良く見てくれたと最後の様子と伝えに来てくださったそうだ。
伯父の遺書を写してきたのをなるべく忠実に書いてみたいと思う。旧かなずかいで転換できない所も出てくるかと思うけれど、伯父ちゃんの倍以上も生きた私だが、この文章はきっと書けない。伯父ちゃんはやはりずっと尊敬してやまない伯父ちゃんであると思う。

遺書
   「大君の御為 此処に名誉の死を遂ぐるは 不孝者のせめてもの御孝養と
    自慰致し ご両親様の御健康、ご多幸の末長からん事を御祈り致します。
    艶子の事に関しては誠に気性優しき女なれば 何卒本人の意思を尊重し
    宜敷く善処被下度 再婚の意思なき場合は御両親様の膝下にて御愛撫被下様
    御願い致します。
    義治は病弱の身体に兄の戦死に依りその全責任を負わされて気の毒なるも
    何卒御両親様の事よろしく御願す  健康第一を信條致し無理せぬ様千年の
    齢を重ね御両親様への孝養御頼み致す
    艶子は僅か二ヶ月の生活の間よく自分の様な男に仕えた事をうれしく
    思っています  何等のたのしき想い出もなく若くして苦しき事のみ
    然しお前には此の決心は充分に出来ていた事だろう
    両親の事よろしくたのんでおく
    通夫 栄子殿
    河野家百年の繁栄と御二人の萬歳を祈り 義治の事よろしくお頼み致します
    美枝ちゃんへ
    健やか幸福に大きくなって それのみを祈る
    今一度逢いたかった 伯父の顔を忘るなよ

何度読み返しても泣けてくる。最後の私に当てた「今一度逢いたかった」のくだりが伯父ちゃんの真の叫びであろう。此の遺書に書かれた人たちはみんな鬼籍に入り今頃あの世で、手を取り合っているのだろうか?