しゅうとめの思い出

しゅうとめ達の世代が生き抜いた時代は戦中戦後の苦難の時、日本が戦後復興を果たし文明国として確立してゆく怒涛の時とわずか7,80年の間の変わりようは、もう60歳よりしたの人には想像も出来ないと思う。
家事は全て手作業で、洗濯はたらいで洗って手で絞り、掃除は箒ではいて雑巾で拭いて、冷蔵庫は氷を入れる冷蔵庫で氷やさんが毎朝氷をリヤカーに積んで配達に来た。廊下は糠袋で磨き、障子は自分で張替え、着物も洗い張りして自分で縫い直し、布団は綿の打ち直しに出して洗っておいた布団側に入れてやり直し、冬は丹前を真綿を入れて縫い直しと書いていると母や姑の時代の母親は本当に良く働き偉かったなと思う。
まして、戦争中は働き手の主人を戦争に取られ子供達を育て糊代を工面しとそんな強い女に支えられて、私たち子供は守られていたのだと思う。
しゅうとめは、行動的で社交家、朗らかで勝気、よく気の付く人でもてなし上手。働くのも遊ぶのも大好きで高校時代はグループで遊びに行き夏は諏訪ノ森の海で海水浴、冬はお正月は皆で泊り込んでよく遊んだ。舅も、姑も客が来るのが大好きで高校生に混じってトランプや花札を楽しんだ。二日目のコースは決まって私の家にみんなで寄って今度はしりとり歌合戦やジェスチャーを父母も交えて遊んだ。
親同士もいつからか仲良くなり4人でマージャンを良く楽しんでいた。
しゅうとめは、また料理が上手な人で、私は独身時代はあまり手伝いもせずに結婚してからの同居時代にしゅうとめから魚の捌きかたや煮物の味など習った。舅が商売をしていた関係で何事かというと人が集まり、未だ仕出し屋からお料理を取るという習慣も無くてみんな家で作っていた。焼き鯛など土間でレンガを並べて何十匹も焼いていたし、巻き寿司などは餅箱に作っていた。此処でもまれたことが私にとって料理学校に行くよりずっと役に立っている。 子供は男二人だったので舅もしゅうとめもよく可愛がってくれて結婚する前からあちこち連れて行ってもらった。
私が長男を産む時も親達は4人でマージャンをしながら産気ずくのを待っていて、夜中近くお腹が痛くなってきたので「そろそろ行ってきます」というと「いってらっしゃい」と暢気な親達であったなと懐かしく思い出す。
その舅が長男が3つの時に亡くなってしゅうとめは40何年、寡婦として生きてきて天国で舅に会ったら「ふけたな」と言われるかしらんなどと思ったり、また4人で遊んでいるかしらとも思う。