社長の椅子が泣いている

yosinonosato2007-10-14

先日、ヤマハの同窓会で私達が居た時期小売課長だった河島博氏の訃報と亡くなられる前お見舞いに行かれた先輩達のその時の河島さんのご様子の報告があった。その折河島さんのビジネスライフのドキュメンタリーの本を貸してもらった。その本を読んでの感想を書いておきたいと思う。河島博さんのお兄さんは知る人ぞ知るホンダの社長河島喜好氏である。では、財閥の出身かというとそうではなく、お父さんは病院務め、お母さんは看護婦さんであったという。
兄弟は裕福ではないが暖かい家庭で育ち、学業成績も優秀であったが、戦争で家が焼けお父さんが病気になられて、大学はあきらめ、兄は浜松工業専門学校、弟は名古屋経済専門学校を出て、夫々、ホンダ、ヤマハに就職することになる。そして博氏は、ヤマハ東京支店の小売課長を勤め、昭和31年に大阪支店の小売課長として赴任、翌32年の5月に私は河島課長の面接を受けることとなる。何故、5月かというと私は、初めビクターに入社した。その後ヤマハの募集をしり、学生時代からの憧れのヤマハに入りたく、止むに止まれず受験した。それは、ヤマハが新装成った阪神百貨店に出店することになり、人員補充の為の臨時募集だった。ちょっと、自慢になるがその時の、応募者が1400人、書類選考で200人位が小学校を借りて筆記試験に臨み、30人位が面接を受け、合格者が7人であった。ビクターには支店長に正直に話して「お得意先だから仕方ないね」と許してもらった。1ヶ月しか勤めてないのに送別会までして貰った。そして、7人の仲間と浜松へ一週間の研修に行った。4月入社組は1ヶ月だったそうだが、臨時募集と言う事で1週間と言う事になった。少人数ではあり女の子ばかりという事もあって一応、会社についての講義や工場見学もあったが観光旅行並みに色々遊ばせて貰った。一番はヤマハ発動機で、オートバイに乗せてもらい150k位のスピードを体験したことだ。涙がじわっと湧いてきて目じりのほうからピッと飛んでいった。凄いスリルだった。美味しい鰻を食べさせて貰ったり今から考えるとなんと甘えた研修だったことか?
さて、大阪に帰り私は、楽器係になった。それからずっと辞めるまで、楽器係だった。
さて、河島さんの話。身体の大きい、目玉の大きい、声の大きい人だった。明るくてあまり怒った顔を見せない方だった。あの時、河島課長は25歳だったというから、部下も殆どが年上だったのではないかと思う。女性は年は下でも支店でのキャリアは長く、私達新入生はご自分で入れた初めての部下だったと思う。小売部全体とても仲が良くて休みの日などハイキングに行ったりしたがその時は、奥様も同伴されていた。私は4年間在籍していて、最後の一年は阪神百貨店に移動になったが、心斎橋に居た3年間の内、河島課長は2年くらいで卸部の課長になられた。しかし、私の思い出の中には河島課長しかいない。昭和52年に、河島さんが46歳の若さで社長に就任された時、河島課長時代を共に過ごした女子一同が集まってロイヤルホテルでお祝いの会をもった。今考えるとお忙しい時期であったろうに大阪まで来て出席してくださり喜んでくださった。まさか、その社長の座が3年しか続かないと誰が思った事だろう。
それからの、河島さんのことは、同窓会でも風の噂というふうに細い糸も途切れがちになった。今、この本で初めて、河島さんの波乱万丈の人生を私達も知る事となった。同窓会席上でも、「川上さんは好きではなかったけど、こんなにひどいとは思ってなかった」と言う声が聞かれた。ヤマハダイエー、リッカーと傾きかけた会社を力を尽くして立ち直らせた河島さん、
その代償は裏切りとしかいえない仕打ちで終わったが仕事が大好きでその達成感が何より大きい喜びだったのだろうと思う。我が青春の1ページを飾る日本楽器の思い出は、河島課長なしには語れない。ご冥福をお祈りしつつ・・・